[ 夜 に 溶 け る ]
宙に揺蕩う薄い紫煙を見るともなしに目で追う。
この部屋で何本目かの煙草を吹かす男の視線は窓の外の夜へ向けられていた。
マコトは息を吸い込んだ。
煙の匂い。
この匂いに限って、いつの間にか銘柄まで当てられるようになっていた。
何となく口に出してみたら、猫背の掃除屋と同じパッケージの煙草を愛用していたらしい友人に感心されたものだった。
目を眇めて回想しつつ、嫌いではないのにな、と思う。
兄キの部屋、タバコ臭い。
最近弟に言われた言葉だった。
マコトはぎょっとした。
自分の部屋に煙草と臭いが染みついてしまっていたということに対してではなく、その事実に自分が少しも気が付いてなかったということへの驚きだった。
弟は、顔を顰めたまま続けて言う。つーか、アイツ?
染みついた煙草のにおいで思い当たる人物は弟も同じだったらしかった。
無論、彼は銘柄など知らなくて、単に煙草臭いのと例の掃除屋がイコールで結びついているというだけなのだろうけれど。
弟の指摘まで気付いていなかったとはいえ、大いに思い当たる節のあるマコトは曖昧に苦笑した。
客商売の美容師が煙草臭いのってあんま良くないんじゃねぇーのー、なんて、生意気にも兄に説教垂れる弟である。
その言葉は尤もで、特に女性相手が多い仕事なものだから、煙草だの何だのを気にする客はやっぱりそれなりにいるのだが。
「禁煙にしちゃえよ」
それでもマコトは、曖昧に笑って返事を濁すことしかしなかった。
窓の外に向けられていたKKの目が、こちらを見ていた。
ゆっくりと瞬きをしてから視線を合わせる。
何見てんだよさっきから、とKKは目だけで怪訝そうに尋ねた。
染みついた匂い。
普段よりはるかに、煙草の本数が多い。
KKはそういえば、いつもこの部屋の窓辺に陣取って煙草を吹かしていた、ということにマコトは思い当たった。
一応気にしてはくれているのだろう、いつも要らない気遣いの細かい男のことだから。
マコトがひとりでにやついているので、KKは更に眉を顰めることになる。
「…何なんだ」
困惑を隠さずに投げられた問いに、マコトは答えない。
「KK、それ吸い終わったらちょっとおいで」
「……?」
律儀に持ち歩いているケータイ灰皿に吸いさしの煙草を押し付けようとするのを笑顔で止めて、吸い終わってからでいいよ、と繰り返す。
意図の分からぬままKKは素直に窓辺に居直って煙を吐き出した。
居所無くゆらと漂って直ぐに夜に溶ける。
マコトは見るともなしにそれを目で追った。
「ん」
十分短くなった煙草の火を今度こそ消して、のそのそとマコトの傍へ寄る。
訝しげな様子ながらも警戒心は感じられないようにマコトには思えた。
オレならこいつを殺せそうだ、と、物騒なことを考えながら自分も膝立ちで彼ににじり寄って距離を詰めたところで抱き締めた。
抱きしめる、というか、しがみつく、というか、とにかく両腕ですっぽりと煙草臭いツナギ野郎を覆う形になる。
KKはぴくりとも抵抗を見せなかった。
少し調子に乗って腕の力を強くしてやる。
流石に居心地悪かったのか身じろいだKKのために力を緩めると、にやにやと口角を上げたKKと目があった。
「どしたよ?」
「さあねー?」
服に、髪に、身体に染みついた匂いを強く感じる。
硝煙のにおいって、煙草じゃないと消せないなんて思っているんだろうか。
多分、そうなんだろう、と、いつもマコトが勘付いているということをKKは勘付いている、ということをマコトも勘付いていた。
気にしてくれているのだろう、要らない気遣いの細かい男のことだから。
そんな気遣いをしてくれてまで、憔悴しきった身体でこの部屋へ来ることを、マコトは自惚れたい。
この部屋を禁煙にしたら、彼が煙に巻こうとしていることをふいにしてしまう。
何かが変わったら、彼はもうここには来ない。
肝心の何かが一体何なのか全く分からないというのに、この部屋に染みついた煙草の匂いが薄れていかなくてはならない日が来るのは、何となく確実なのだろうという予感が確かにあった。
そろそろ染め直しが必要そうな色をしたKKの頭に顎を乗せて、手を回した背中をあやすようにぽんぽんと軽く叩く。
どこかで血液が廻っている微かな音のする身体だった。
相変わらずKKは無抵抗だ。
ならば、自分の気の済むまでこうしていることにしよう、とマコトは決めて、再度もう少しだけ、腕の力を強くした。
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