[ 花 ]
微熱を感じた。
寒気も頭痛も体の怠さもなく、ただ微熱だった。
ベッドの中でもぞりと身を捩じらせ、スギはベッドサイドの携帯電話を手にした。
目覚まし代わりにも使用している必需品の、アラームをまだ今朝は聞いていない。
カーテンの隙から感じる朝の明るさに何となくあたりをつけてから時刻を確認すると、ディスプレイにはスギの考えていた時刻よりも更に1時間ほど早い時刻が映し出されていた。
アラームをセットしておいた時間まではまだ大分余裕がある。
これから寝直せば、あるいはこの微熱も収まり、今日の約束には何の問題もないような気もしていた。
着信履歴から番号を探り、ベッドに転がったままスギは電話を耳に宛がった。
数回も鳴らさないうちに、くぐもった声が届く。
「……おはよう、何、随分早起きだね」
「おはよう」
スギは少し笑った。
寝起きのレオの声が何だか子供っぽく不機嫌で、悪いことをしたなあと他人事のように頭をよぎっただけだった。
「あのさ、今日の約束、他の日にしてもらえないかな」
「……何で?」
衣擦れの音が聞こえた。
レオも同じようにベッドの中で電話を手にしているのだろうか。
「ちょっと、熱が出ちゃって行けそうにない」
レオはすぐには答えなかった。衣擦れの音がした。
「熱?大丈夫?スギ」
「うん」
レオの声にはもう寝惚けた様子は感じられず、はきはきとしたいつもの話し方になっていた。
「ごめんね、早くに電話して」
「いや、ちょうど良かったよ。起きるとこだったんだ」
レオは明るく笑って言った。
スギは何となく合点がいく。
おそらくあの会話の間にレオはもう着替えを済ませて、朝の活動を始めているところなのだろう。
こちらはまだ仄暗く、夜の気配が消え去るのには時間が掛かりそうなものだというのに、スギの部屋から数十分ほどしか離れていない彼の自宅ではもう完全に夜は明けきっているようだ。
「ここ最近急に寒かったしね、ゆっくり休みな」
レオの声は明るくて嫌みがなく優しい。
体温計をどこにしまったか、スギはよく覚えていなかった。
測ってもいない微熱の気配を理由に、約束をすっぽかそうとしているのに、淀みのないその抑揚が少し悔しいように思えた。
「レオ」
支度を整える雑音を聞きながら、スギはふと名前を呼んだ。
用件はとうに聞き終えたはずなのに、電話を切らないでいてくれる心遣いがありがたい。
「看病にきてよ」
「今日の用事が済んだらね、それまで大人しくしてろよ」
悪戯を仕掛けるように囁かれた言葉も、拒むでも真に受けるでもなく自然に会話が流れる。
スギは恋人とか、そういう類がするように、愛だの何だのと口にしたくなったが、やめた。
微熱のせいなんだろう、と思った。
その代わり、聞こえないように名を呼ぶ。
唇で音を形作るだけで、決して声は出さずに。
相手に届くはずはないと確信した呼びかけだった。
やはり、どこかでスギはレオに甘えている節があるのだと感じていた。
じわりと微熱が増したのが分かった。
「ちぇ。まあ、うん、そういうことだから」
電話を切るのはスギからでなくてはならない。
そういうこととはどういうことなのか、自分では全く分からないまま、小さな電話機を耳から離した。
「スギ」
瞬間、名残のようにレオの声が呼んだ気がしたが、ゆき過ぎた妄想の産物だろうと、片手は電話を切っていた。
ゆき過ぎた妄想の産物であるはずのレオの声が、片耳から離れなかった。
スギは、これから自分をけたたましく起こしてくれるはずであった携帯電話の目覚まし機能を解除して、もう一度毛布を被った。
レオの呼ぶ声を片耳に反芻させながら、何度かその名を口にすると安心してスギはまたすとんと眠りに落ちた。
スギの部屋のカーテンから揺れる光もまた、朝の到来を告げていた。
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