[ 涙 売 り ]





















不意に弾けた水滴を不思議に思った。



ナカジは静かに本を閉じる。



思い返してみても、泣ける様な話では無かった筈だというのに。

閉じた本の表紙を僅かに指で撫ぜる。


赤茶く変色した装丁は、時の重みを感じさせても尚、平然とそこに存在していた。

今まで誰の手に渡り、何を見てきたのか。


余り興味の持たなそうな空想だったが、ナカジは暫くそこに思いを馳せていた。







古本屋に立ち寄ったのは気紛れだった。



古い住宅街の合間の小路をひとつ余計に入り組んだ所まで足を進めてみたのは、この日が冬の近い秋の終末にしては随分日差しが柔らかだったから。

夕間暮れのその時刻でも春と勘違っても不思議は無い様な外気の中、少しばかり寄り道など嗜みたくなるのもまた、何ら不思議の無いことだった。



本屋は、そこにあった。



飾り気の無い外装で、周りの風景に溶ける様にその存在感は希薄極まりないものだった。

ナカジは何故だか強くひかれたのだ。

入口に近付いたところで、やはり飾り気のない店だった。

ドアには細い金字で店名の綴られた小さなプレートが掛かっているのみ。

外国の言葉で書かれているその名をこの時はまだ読み解くことが出来なかった。



引き寄せられるように立ち寄ってしまったこの店が古書店であるのを知ったのは、ドアを開けたその時だ。


時を経てきた書物特有の、甘い埃のようなにおいとともに、何か知らない遠い国に漂う空気が鼻腔をついた。

ドアに掛った小さな鐘が来店を知らせるチャイムとなる。

暫くしても中からは独特の気配だけで、店員が姿を見せる様子は見られなかった。



ナカジは迷い込みそうなその雰囲気にやや圧倒されながらも、広くは無い店内に足を進めた。

辛うじて人が通れる間隔で背の高い本棚が並ぶ。


店内は静かだった。

自分の存在のみがその静けさを乱す要因なのだと思うと、出来る限り息を殺し、一歩進むのにも細心の注意を払わなくてはならないような気にさせた。



濃密過ぎる古書の呼吸の中、ナカジは半ば溺れそうになりながらもその背表紙を眺めた。

秩然と整列されたそれらの本は、意外にも、他の本屋のように分類されている訳では無いことが分かってきた。

布張りの厳めしい伝記の隣には色褪せてなお目を引く不思議な文様のデザインされた画集、その隣には純文学小説らしき英国の本、さらにそれと並んでいるのは薄くて小さな絵本、といった風に、一つの棚に収まっているのは大きさも種類も、見た目の古めかしささえてんでばらばらな書物だった。

それなのに、まるでそこにあるのが最も自然であるかのように、微塵の違和感も感じさせずに物も云わず並んでいる。



ナカジは浅く息を吐き出した。


何処なのだろう、此処は。


確かに古本屋の筈が、濃い靄に包まれてまるきり帰り道を見失ってしまった様な感覚だった。

無論、それは単なる感覚の問題なのであり、振り返ればナカジの目には今しがた歩いてきた本棚の間の通路も、その先にある出入り口のドアから差し込む西日の斜光もはっきりと見ることができていた。




「何かお捜しですか」



不意にそう声をかけられた時は、驚くよりも寧ろ安堵を覚えた。

とはいえ驚くことは確かに驚いたのだが。


弾かれた様に振り返ると、ナカジの反応に困ったような笑みを浮かべていたのは若い男だった。



「すみません、驚かせるつもりは無かったんですが」



天鵞絨の様に軟やわらかな声色だった。

すらりとした体躯、少し癖のある黒髪に肌は日本人のそれよりもやや白く、薄いレンズの嵌め込まれた眼鏡の奥の虹彩は左右で異なっているようにも見えた。

彼の身に着けている黒のエプロンと、その左胸の辺りに付いているネームプレートで、何とかこの店の店員なのだということが理解できた。



「あの」


ナカジはそう声を出したが掠れた咽喉の響きが混じって何とも不格好だった。

それ以上言葉を発せずにいると、店員は促すように首を傾げた。

何か喋らなくてはならない。

ナカジは僅かにつばきを呑んだ。



「あの、本を探しているんです」



言ってしまってからナカジは自分の顔面に血液が集中していくのを感じた。

古本屋に来て、何かお探しですかと問われた応えが本を探している、とは何事だろうか。

俯くナカジに、店員が微笑む気配がした。



「少々お待ち下さいね」



男はキャッシャーの前の少し広くなっているスペースまでナカジを案内すると、そう言い残して書架の隙間へ消えていった。





彼が見繕ってくれた本のうち、文庫本ほどの小ぶりな本に手を伸ばしていた。



持ち上げると思った以上に重量がある。

日に焼けて変色した紙が心地よく手に馴染むようだった。

表紙に書かれた文字の上を、指でそっと撫ぜてみる。



店員はすっと双眸を細めて頷いた。



「いい本です、大事にしてあげて下さいね」



光の加減でも気の所為でもなく、彼の瞳の色は右と左で違っていることにナカジは気がついた。









そうして何時の間にか購入していた本を、先刻読み終えたところだった。



取り留めの無い短い小説が八編、さして面白いとも感じなかったのに、読み始めたら一気に終りの頁を捲ってしまっていた。



表紙を閉じてやっと、泣いている自分に気がつく。

一体いつから、自分はこんな風にしていたのか。



今までこの本に触れてきた人々の想いが凝縮されて流れ込んで来たかのように、ナカジは訳が分からないまま泣いていた。



道など覚えてはいないけれど、もう一度あの店に行こう、とナカジは思った。



そうしてまたひとりでに展開される本の持ち主の空想は、とても下らないことばかりだったが、ナカジを夢の際まで連れてゆくのに、これ程適したものは無かった。



















19:36 2007/12/05

--- c l o s e ---





ミシェルの悪徳商法にまんまと引っ掛かるナカジなのでした。



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